〈ゲーム性〉

〈ゲーム性〉

Gaminess

 RPGセッションにおける「ゲームの面白さ」をマスターリングによって保障し続けること。

 「ゲームマスター5つの裁定基準」のうちの1つ。

 ──しかし、これだけは、5つの裁定基準の中でも、とりわけわかりにくい裁定基準であるように思われる。

 実のところ、この〈ゲーム性〉とは、いまだ定まった定義のみつからない、曖昧な概念である。以下の記述は、定義集の一部分というよりは、これまでの〈ゲーム性〉について検討されたさまざまな議論をもとに、〈ロールプレイング・ゲーム〉における〈ゲーム性〉の射程をおおまかに素描するための、予備的な考察として読んでいただきたい。なにしろ、この〈ゲーム性〉を尊重できるかどうかが、マスターリングの技法に習熟するための条件の一つと考えられている以上、「曖昧だから無視する」というわけにはいかないのである。

 さて、ゲームをめぐる言説の中には、コスティキャンによって定義された〈ゲーム〉の条件とは別に、「このゲームは〈ゲーム性〉が高い」とか、あるいは「このゲームAとあのゲームBは〈ゲーム性〉が違う」といった言い回しが存在する。これは、デジタルゲームや伝統的なテーブルゲームも含めた、あらゆるゲームにおいて普遍的に存在する言説であると思われる。そして確かに、〈ゲーム〉という娯楽は、ほかのメディアでは経験することができないような種類の体験を与えてくれるし、またそれによって知的快楽や感情の昂ぶりを感じさせてもくれる。

 この「ゲーム体験」が、はたして“ほんとうに”他のさまざまな社会的経験と質的に異なる独特の価値を持つ体験であるかどうかは、まだはっきりとは言うことができないだろう。しかし、少なくともこの「〈ゲーム〉独特の体験」が、世間においてある程度既成のものとして受け入れられていることについては、ある程度まで了解を得られるのではないかと思う。私たちは、〈ゲーム性〉とは具体的に何かをはっきりと言い表すことができなくても、それが何がしかの「ゲームの面白さ」を引き出す源泉となっているということは、どうやら認めているようなのである。

 ともあれ、ほかでもない「“ゲームが”面白い」と参加者に思わせ、惹きつけるような〈ゲーム〉に備わってる性質を、私たちはしばしば便宜的に〈ゲーム性〉と呼んでいるのだ。

 ところで、この〈ゲーム性〉という曖昧な概念が、実際のところどのようなものとして定義できるのかについての研究は、どこまで進んでいるのだろうか。残念ながら、この〈ゲーム性〉の定義をめぐる研究は、まだまだ発展途上なのが現状である。この〈ゲーム性〉をめぐって言説分析的研究を行った国内の研究には、たとえば井上(2003=2005,2007)があるが、この井上の研究もまた、〈ゲーム性〉を定義することは慎重に避け、どのように〈ゲーム性〉という言葉が用いられるのかを整理・分類するに留まっている(さらには、〈ゲーム性〉をゲーム批評の主題にすることを陳腐と見なす近年の風潮についても言及している)。

 ここまでが「ゲーム一般」についての〈ゲーム性〉をめぐる状況である。さて、RPGについては一体どのような〈ゲーム性〉に関する議論があるだろうか。

 RPGもまた、「ゲーム」の一ジャンルである以上、〈ゲーム性〉について言及されることはたびたびあった。しかし、この定義集において定義された〈ゲーム〉であるかどうかについては、馬場秀和が「RPGの面白さは〈意志決定〉にあり、〈意志決定〉こそが〈ゲーム性〉を生み出す最大の要因となっている」という趣旨の主張を行うまで、「RPGにおけるゲーム性とはそもそも何なのか」について、一貫した主張を行う人間は少なかった。

 まず、馬場は、「文化的な営みとしての遊び」全体における〈ゲーム性〉を問題にしているわけではなかった。彼はあくまで「“上達の基準を示しうるような”文化的営みとしてのゲーム」という、狭義のゲームをRPGにおいて立論しようと試みたのである。そして、その「狭義のゲーム」を論じるためには、コスティキャンの言う意味での〈ゲーム〉を採用するのがもっとも適切だと馬場秀和は考えた。

 馬場にとってもっとも重要なのは、RPGにおいて「上達の軸」が存在することを、具体的な上達の指針と共に明確に指し示すことだった。そして、その軸を示せないような〈遊戯〉を中心においたRPGや、「RPGにおける教育論の不在」を、徹底的に批判した。

 その批判点は、おそらく以下のように要約することができるだろう。

  • RPGが〈アート〉であるとするならば、世界中どこにでも通用するような〈基礎理論〉〈表現技法〉〈教育方法〉によって普及することができるはずである。(RPGにおける「理論」構築の実現可能性)
  • しかし現在、そのような「理論」がないため、本当ならばもっと魅力的で奥の深い楽しみが得られるはずのRPG文化を、誰もが楽しめる間口の広い文化として発展させていくことは、たいへん難しい状態にある。(RPG文化普及の限界が「理論」不在の状況にあることの批判)
  • そのような未来を築くための第一歩として、私たちは何よりもまず、面白さの源泉としてもっとも蓋然性が高く、また論じるに足りる価値があると目される〈ゲーム性〉をこそ、RPG上達の第一の基準に置くべきではないだろうか。(〈ゲーム性〉を基礎とした「理論」構築の方針を宣言)

 馬場は、以上の3点を、あらゆるアプローチ・テーマから何度も繰り返し──ほんとうに何度も何度も──主張してきた。

 しかし、ならば馬場自身は、どのような〈ゲーム性〉をRPGにおいて学び得る〈ゲーム性〉として捉えているのだろうか。ゲーム一般の〈ゲーム性〉がまだ一意的に定められない以上、馬場には馬場なりの〈ゲーム性〉に対する仮説が用意されているはずだと考えられてしかるべきである。馬場の〈ゲーム性〉はほとんど〈意志決定〉と同じものだと解釈することもできるが、コスティキャンによれば、〈意志決定〉は必ずしもRPGにのみあるものではない。では、馬場にとっての、「RPGにしかない〈ゲーム性〉」とは、いったい何を意味するというのだろうか。

 それに関して馬場は、〈目標の多層構造〉こそが、RPG独自の〈ゲーム性〉を支える最大の要因になっていると考えているようである。(馬場2002b)

 RPGのプレーヤーは、セッションにおいて提示される〈目標の多層構造〉を認識し、それらをすべて受け入れた上で、提供された目標すべてを無矛盾に解消しようとしなければならない。この姿勢を獲得することによって、はじめてRPGにおいて〈意志決定〉が成立するだろうという仮説を、馬場は提唱している。この馬場の〈ゲーム性〉に関する仮説は、馬場が〈キャラクタープレイ〉〈パワープレイ〉など、〈目標の多層構造〉の4つのうちの一部を選んで満足するようなプレイを「へたなプレイ」とか「そもそもプレイと言えない」などと判断するための、理論的根拠にもなっている。

 この馬場の仮説をひとまず受け入れるならば、〈ゲームマスターの裁定基準〉5要素における〈ゲーム性〉とは、「〈目標の多層構造〉がどのように〈意志決定〉を発生させ、〈ゲーム〉を面白くしているのかについて、常に意識を向け続けること」と定義することができる。RPG独特の〈ゲーム性〉とは何かについて、完全に正確な定義を行うことは今は避けるべきかもしれないが、ひとまずこの仮説に基づいてRPGのゲームデザインを論じることは、方法論の一つとして有効な手段であるといえよう。

  →〈アート〉〈ゲームデザイン〉〈マスターリング〉〈目標の多層構造〉〈ゲームマスターの裁定基準〉

(馬場1996-7,2002b)(Duke1974)(井上[2003]2005,2007)